【お知らせ】10/27 飛騨「梅原司平折り鶴コンサート」

○とき 2012年10月27日(土)15:30~17:30(15:00開場)

○会場 一之宮公民館大ホール(一之宮支所向い)高山市一之宮町3087番地1(0577-53-2424)

○入場料

・高校生以上 前売1000円(当日1500円)

・小中学生・障がい者 500円(前売・当日共) 


梅原司平(うめはらしへい)プロフィール

1946年富山県生まれ。1971年より音楽活動を開始し、1975年全国シャンソンコンクール決勝に進出。CBSソニーオーディション関東甲信越代表。1980年ソニーより念願の全国デビューを果たす。しかしメジャーとはほど遠く、歌の原点に返ることを余儀なくされる。その後、小中学校、高校、老人ホーム、ホスピス病院、少年院等を訪れ、歌を通して多くの出会いを重ねている。2008年キングレコードより再デビューアルバム『愛あればこそ』を発売。同年講談社より『売れない歌手でよかった』刊行。2011年3月11日東日本大震災の日、帰宅困難中に新曲「うたのちから」を創作。9月キングレコードより『うたのちからー40周年記念アルバムー』発売。


チケット取扱所

高山市民文化会館、楽器のDAN、コサカ楽器(本店)、コサカ楽器(カルパティオ店)、絵本雑貨雷鳥屋(上一之町)、ポレポレハウス(清見町)、レストカフェギャラリー&ライブハウスサンアート高山(高山駅前) 他

 

主催 「梅原司平折り鶴コンサート」実行委員会(代表 小竹隆哉・吉城高校73-4555)

後援 高山市、高山市社会福祉協議会、広島市(連絡先090-5009-8771・中澤)


「折り鶴」の歌について

 梅原さんが「折り鶴」をつくったきっかけは1981年5月に初めて広島の地に立った時である。原爆ドームを見上げながら胸の奥からこみ上げてくるものがあり、終戦からまもなく疎開先の掘っ立て小屋で産声をあげた梅原さん自身は親や兄弟から富山空襲のことを聞かされていた、その記憶や想像が重なり合って、初めて、平和というものを真っ正面に据えた歌を創ろうと決心を固め、翌年1982年10月に「折り鶴」の歌がうまれたのです。

 

折り鶴    作詞・作曲 梅原司平

生きていてよかった それを感じたくて

広島のまちから 私は歩いてきた

苦しみをことばに 悲しみをいかりに

きずついたからだで ここまで歩いてきた

この耳をふさいでも 聞こえる声がある

この心閉ざしても あふれる愛がある

はばたけ折り鶴 私からあなたへ

はばたけ折り鶴 あなたから世界へ

生きていてよかった それを見つけたくて

長崎のまちから 私は歩いてきた

この胸のいたみを うた声にたくして

焼けあとの下から ここまで歩いてきた

この耳をふさいでも 聞こえる声がある

この心閉ざしても あふれる愛がある

はばたけ折り鶴 私からあなたへ

はばたけ折り鶴 あなたから世界へ

はばたけ折り鶴 私からあなたへ

はばたけ折り鶴 あなたから世界へ

折り鶴について

 平和記念公園内ではいたる所で、色鮮やかな折り鶴が見受けられます。折り鶴は日本の伝統的な文化である折り紙の一つですが、今日では平和のシンボルと考えられ、多くの国々で平和を願って折られています。このように折り鶴が平和と結びつけて考えられるようになったのは、被爆から10年後に白血病で亡くなった少女、佐々木禎子さんが大きくかかわっています。

 佐々木禎子さん(当時12歳)は、2歳のときに被爆しましたが外傷もなく、その後元気に成長しました。しかし、9年後の小学校6年生の秋(昭和29年・1954年)に突然、病のきざしが現れ、翌年2月に白血病と診断され広島赤十字病院に入院しました。回復を願って包み紙などで鶴を折り続けましたが、8か月の闘病生活の後、昭和30年(1955年)10月25日に亡くなりました。

  禎子さんの死をきっかけに、原爆で亡くなった子どもたちの霊を慰め平和を築くための像をつくろうという運動が始まり、全国からの募金で平和記念公園内に「原爆の子の像」が完成しました。その後この話は世界に広がり、今も「原爆の子の像」には日本国内をはじめ世界各国から折り鶴が捧げられ、その数は年間約1千万羽、重さにして約10トンにものぼります。(広島市ホームページより)